ベリーダンスについて。エジプト編
ベリーダンスは、中東・アラブ圏にて女性たちの間で踊られてきたダンススタイルです。
口承で伝えられてきたので正確な記録は確認されませんが、起源は主に紀元前のエジプトやトルコ周辺とされています。
「オリエンタルダンス」と呼ばれることも多く、アラブ文化圏ではラクス・シャルキー(Raqs Sharqi東方の踊り)、ラクス・バラディー(Raqs Baladi民族舞踊)と呼ばれるのが一般的です。
ベリーダンスの歴史〜エジプトのベリーダンス〜
■エジプトのベリーダンス
古代オリエントから継承する豊穣神への祭儀的な舞踏や、結婚出産を祝う踊りに始まり、強大な勢力を誇ったオスマントルコ宮廷のハーレムエンターテイメントとして発達したり、インド北西部から広範囲を移動していったジプシーたちの文化や土着のフォークロアと交わったり、多様な変化を遂げていきました。
イスラム文化圏では女性は肌の露出を最小限にしなければならないとされていますが、親族以外の異性前での露出に限られます。スルタンやカリフのハーレム内や女性同士の集まりの場では問題がないので、盛んに踊られていたようです。
19世紀にそれまでオスマントルコを宗主国としていたムハンマド=アリー朝のエジプトは、財政の破綻からイギリスの支配を受けることになりました。その際に西欧的な舞台文化が持ち込まれ、それまで宮廷や結婚式・祭祀の場で踊られてきた舞踏が、市街地の劇場などで踊られるようになってきます。
西洋ではコルセットで締め上げ衣類を重ねて隠してきた腹部(Belly)がさらけ出され、豊満さを富の象徴として踊るスタイルは、西洋人には大きな衝撃とともに新鮮な驚きをもって迎えられました。
1920年代には伝説的なダンサーであるバディア・マサブニが経営していたナイトクラブから、タヒヤ・カリオカやサミヤ・ガマールといったスターダンサーが誕生します。
それまで即興中心だった踊りに決まった振り付けをつけたり、ベールやシャマダンなどの小道具を使い始めたのもバディアだったといいます。
1952年のエジプト独立以降、さらに同国のショービジネスは新しい時代を迎えることになります。
1957年、ロシアのダンス・フェスティバルでマハムード・レダを有するエジプトの舞踊団が出演し、大好評を受けます。その後1959年に彼を主宰とするレダ国立民族舞踊団が設立されました。
マフムード・レダはベリーダンスを知る上では欠かすことのできない、偉大な存在です。
マフムード・レダによってエジプト各地で様々に伝えられていた民族舞踊が体系づけられ、舞台芸術作品として高められ、世界各地で公演活動が行われ、数々のミュージカル映画が発表されました。
レダ国立民族舞踊団ではナイーマ・アケフ、ファリーダ・ファフミなどのプリマ・ダンサーが人気を博します。ナイーマ・アケフは前述したタヒヤ・カリオカ、サミヤ・ガマールとともに3大オリエンタル・ダンサーと呼ばれ、今も大きな憧れをもって語られています。
1970年代以降は、ナグア・フォアード、フィフィ・アブド、スヘイラ・ザキなどのトップダンサーが次々と現れます。彼女らのダンスはYOUTUBEなどで今でも高く評価され、彼女らの振り付けは世界各地で踊られ、彼女らのために書かれた曲を演奏する音楽家は後を立ちません。
2000年、カイロで初のベリーダンス・フェスティバル「AHLAN WA SAHLAN(カイロ・フェスティバル)」が元国立レダ民族舞踊団のライヤ・ハッサンによって開催されました。後にアレクサンドリア出身のスター、アイーダ・ヌール主催の「ナイル・グループ・フェスティバル」など、エジプトでは毎年大規模なオリエンタルダンスのフェスティバルが開かれます。プロ・アマを問わずオリエンタルダンスの愛好者たちが世界中から集い、一流振付師・講師たちによる連日のワークショップや豪華なガラ・ショー、連夜のパーティーが開催され、ベリーダンサーの祭典として楽しまれています。